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コラム

更新2012/02/07 17:17

(12/2/7)スポーツとしての競馬に未来はあるか

 多事多難だった2011年が終わり、今年も既に1カ月が過ぎた。冬季競技を除けば、本来ならスポーツ界はオフシーズンだが、今年は1月中に大きなニュースが相次いだ。1月9日、女子サッカー日本代表の大黒柱・澤穂希選手(33、INAC神戸)が、国際サッカー連盟(FIFA)の世界年間女子最優秀選手(FIFA女子バロンドール)に選出された。21日にはプロ野球北海道日本ハムのダルビッシュ有投手(25)が、米大リーグ(MLB)のテキサス・レンジャーズ入団を正式に発表。2日後の23日にはテニスの全豪オープン男子シングルスで、錦織圭選手(22、フリー)が、実に80年ぶりの準々決勝進出を果たした。平年なら話題不足に悩まされるこの季節のスポーツメディアにとっては、干天の慈雨のような吉報の連発だった。もちろん、当該競技にとっても、前向きなニュースで脚光を浴びるのだから、悪かろうはずはない。唯一、ダルビッシュのMLB入りは、国内のプロ野球の空洞化という積年の難問を再度、クローズアップした面はある。だが、3つのニュースは「トップの競技者が世界の頂点を目指す」という共通の文脈で見ることができる。門をたたいたダルビッシュ、新たな領域を切り開いた錦織、頂点を極めて「ご褒美」を手にした澤という図式になる。ともかく、頂点に近付けば近付くほど、様々な形で報酬が保証されているのだ。

 競馬を長く観察している者としては当然、「では、競馬は…」という思いに駆られる。3歳3冠と有馬記念を制し、昨年の年度代表馬に選出されたオルフェーヴルの池江泰寿調教師(42、栗東)は、1月23日のJRA賞表彰式の席上、今年の目標を尋ねられる場面が2度あったが、2度とも「凱旋門賞制覇です」と言い切った。有馬記念で古馬を一蹴し、名実ともに国内の頂点に立った以上、次の目標は世界の頂点しかない――。と、ここまでは、競馬も他のスポーツと違いはなさそうに映る。だが、日本の競走馬が本格的に海外で戦い始めて、既に15年以上が経過した。一定の成果も挙げており、「その先の景色」も、ある程度は想像できる地点にたどり着いた。ところが、その「景色」は、考えれば考えるほど、他のスポーツとは異なる。隣の芝生は青い、と言うが、「スポーツとしての競馬」の可能性の有無についても、問わずにはいられない気分になる。

 金で買えない注目度

 ダルビッシュの年俸は6年契約で6000万ドル(約45億円)。日本円で年間7億5000万円となる。昨年の年俸は推定5億円で50%増。円高でさほどの上昇幅にはならなかった。錦織は全豪ベスト8の賞金が21万8500ドル(約1639万円)。優勝で 230万ドルである。テニスやゴルフでは、より長いスパンで現在の地位を維持・向上させることが重要だ。故障に泣かされてきた錦織にとっては、なおさらだ。澤の場合、女子サッカー自体が、まだプロスポーツとして自立に至っていない現状にある。昨夏の女子W杯ドイツ大会の優勝賞金は 100万ドル(7500万円)。優勝した日本代表の21選手には、日本サッカー協会(JFA)から、ボーナスとして当初の予定額の1人 150万円から増額された 650万円が支給されたほか、スポンサーのキリンも1人 100万円のボーナスを出した。「サッカーで生きていけるか」という問題と普段に向き合ってきた各選手にとっては、この額でも人生を変える水準かも知れないが、より重要なのは競技の持続的な発展である。昨年9月にはロンドン五輪アジア最終予選を首位で突破しており、今夏までは間違いなく世間の関心を集めそうだが、問題はその先だ。仮にロンドンで再び頂点に立っても、移り気な日本の社会が女子サッカーを何年、支え続けるか…。男子のJリーグとの協力で、地位を固めていく必要がある。

 競馬界は少し前まで、この手の悩みとは無縁だった。少なくとも日本の中央競馬は今も、ギャンブルのマイナスイメージと引き換えに、金銭的には恵まれている。海外に行くにしても、GIなら何でも勝ち馬に褒賞金を出していた時代が終わった今、日本馬は賞金の高いレースにしか行かない。昨年3月には、世界最高賞金のドバイW杯でヴィクトワールピサ、トランセンドが1、2着を占めた。2分6秒余りで、優勝馬は 600万ドル、2着でも 200万ドルだから、世界の主要イベントに引けを取らない。また、円高効果で、ジャパンCの1着賞金(2億5000万円)はドル立てなら約 333万ドルに上る。

 だが、原資はアラブの王族の手持ち資金や、馬券購入者が積み上げた資金である。他のスポーツなら、世界で結果を出すと、多くの人が関心を持ち、結果として入場料やスポンサー収入、テレビ放映権料といった経路で、業界の懐事情も改善される。要は社会全般が少しずつ「ご褒美」を出す。だが、ドバイW杯の1、2着独占は、震災15日後という特殊な時期だったとは言え、必ずしも社会的関心を集めたとは言い難い。11月のジャパンCは、凱旋門賞馬デインドリームとヴィクトワールピサとの顔合わせが実現したが、このカードも競馬界の外の関心を引いたとは言えず、売り上げも前年比 4.7%減。競馬で世界を制しても、直接的なご褒美は期待薄なのだ。

 頂点に立ったとしても…

 2006年10月、ディープインパクトが凱旋門賞に出走した際は、NHKが地上波で衛星生中継を実施し、関東で16%台、関西で19%台の視聴率を記録した。日本の競馬がスポーツとして“最高到達点”に届いた瞬間だったが、当時にしても今年のオルフェーヴルにしても、仮に勝ったとして、その後の「景色」は、人間のスポーツとは相当に違うだろう。検疫があるため、「凱旋レース」はかなり後になり、その間の競馬場には何の変化も起きない。日本の馬が大レースを勝ったからと言って、個別の馬や厩舎、施行体に新たな企業スポンサーがつくわけでもない。当該馬が現役を続けた場合、出走の都度、入場者や売り上げが増えれば、「波及効果」となるが、実はこれも疑わしい。ディープインパクトに群がった人々で、今も競馬に親しんでいる人がどの程度かを考えれば、容易に想像はつく。歴史に残るような名馬と、日常としての競馬は別物である。特定の馬のファンという段階と、競馬一般のファン、あるいは「馬券を恒常的に買う人」の間には、それぞれ途方もなく高いハードルが横たわる。営業的な有効性だけを考えれば、スポーツとしての質の追求が賢い戦略なのか、疑われるほどだ。

 中央競馬の売り上げが4兆円に届いた97年までは、現在とは正反対の構造だった。日本馬と、馬を扱う人の競争力は決して高くはなかったが、営業面でのマイナスは皆無に等しかった。当時の状況を考えても、今、この場にいる購入者の射幸心を刺激することに集中した方が賢明に映るが、そうも言い切れないのが厄介なところだ。競輪や競艇、オートという、スポーツとは異質な「ギャンブルの仕掛け」が、競馬以上に悲惨な状況にあるからだ。ギャンブルの仕掛けと表現したのは、競馬のような馬を走らせる側同士の賭け(ステークス)がなく、最初からパリ・ミュチュエルの器として設計されたという意味である。選手が日々、いかに研さんを積んでも、外の世界は彼らをサイコロの代用物と認識する。売り上げが上がっている間はそれでも良かった。だが、坂を転げ落ちるように業績が低下し、ファンの新陳代謝が止まった今、競輪界は選手を五輪に送り出すことに注力する。スポーツと直接の回路がない競艇界は、ロンドン五輪選手団の支援を名目にスポンサーとなった。一部新聞には、五輪を目指す選手と競艇選手の対談形式の広告が掲載された。「国際舞台」の存在しない業界が打ち出した苦肉の露出戦略である。

 パリミュチュエルの罠(わな)

 そう考えると、競馬の立ち位置はつくづく微妙だ。なまじ、競輪や競艇よりは世間の認知度も高く、今では国際競争力も向上した。だが、今後も国際競争力を追求し続けるには、相応のコストを伴うのだが、結果が出るとは限らないし、結果が出ても、それで競馬産業のパイを大きくなる保証もない。競輪界は過去4大会の五輪で個人2件、チームスプリント1件の計3件のメダリストを出したが、業績に波及した形跡はないからだ。競馬が競輪の轍(てつ)を踏みかねないと思えるのは、公営競技が消費される様式が、一般の観戦型スポーツとは全く異なるからだ。野球やサッカーなら、ファンは試合を見て、チームや特定選手を選好し、場合によっては一定の対価を払う。非常にシンプルな構造だ。だが、公営競技=パリミュチュエルの世界は、安い入場料でただ観戦するという様式もあり得るが、大半の消費者はその様式を採らない。投票券を購入し、自分の財布が多少なりとも膨らむことを願いつつ競技を見る。一般的なスポーツの応援では、競技者・チームに自然に感情移入が行われ、競技が終われば、勝者への称賛が伴う。競馬にも「応援馬券」は存在するが、多くの消費者はもっと冷徹な利己主義者だ。競技としての質が高くても、決して全員が満足することはない。GIで勝者のウイニングランを拍手と声援で迎えるのは一種の礼儀で、複雑な内心を抱えている人は多かろう。

 一般のスポーツなら、競技の裾野を広げることが、ファンの拡大にほぼ直結する。また、トップの競技者の活躍が、裾野の拡大にフィードバックされる確率は高い。だが、公営競技はそうではない。自転車に親しんでいても、ほとんどの人は競輪を買っていない。幼い時期から馬に親しみ、乗馬に取り組んだ人でも、馬券を買う人はどれだけになるか…。何しろ、日本の馬術界には競馬人を二級市民扱いする風潮さえあった。近年、馬術界から厩舎の門をたたく人が増えたのは、馬で生きていく選択肢が少ないからだ。人が投票券を買うという特殊な行為に手を染めるには、一般のスポーツのファンが生まれ・育つのとは全く異なるプロセスが必要で、そのプロセスが機能しなくなったことが、今日的問題である。その結果、現時点でも馬券や車券を買っている人と社会の重心との距離は広がり、競技場には一歩間違えば「サイコロ」と認識されかねないプロの競技者のみが存在する。「パリ・ミュチュエルの罠」と言うべきか。

 国内の競争が消えたら…

 競馬の先行きを考える上で、筆者が注目しているのは自動車レースの今後である。途方もない資金をつぎ込んで、速さを追求する点で、競馬と似た構造を持っているからだ。競馬に見立てれば、各チームが厩舎で自動車メーカーは生産牧場に相当する。各メーカーは技術開発とパブリシティーの両方を狙って参加していたが、排出ガス削減という世界的な流れによって、メーカーがレースに関与する動機付けはかなりの程度失われた。大量のガソリンを消費して速さを追求することは、今や時代に逆行する振る舞いに映り、企業イメージにもプラスとは言い難いからだ。日本の事例を見ても、自動車メーカーがレースから距離を置くようになれば、例えばテレビ中継のスポンサー確保が困難になり、露出がさらに減少し、業界全体の資金難に拍車がかかる恐れがある。

 競馬の場合、自動車のような特殊な要因はないものの、カネのかかる産業を支える構造は長期的に崩れてきている。欧州にあっては貴族社会の解体が大きかった。その結果、大衆が薄く広く支える日本・香港型が脚光を浴びたが、長期不況と所得格差の拡大で、根幹が揺らいでいる。ここに、日本ではさらに、特殊な問題が重なる。寡占の深刻化である。前述のJRA賞の表彰式では、競走馬部門の表彰対象となった9頭中、ダートと障害(以前はどちらも中央競馬の中の辺境だった)を除く7頭は社台系3牧場の生産馬だった。有馬記念でも、実際に走った13頭中9頭は社台系生産で、うち5頭はノーザンファーム。所有を見ても、サンデーレーシングが3頭を数えた。レースでは、超スローで最後方のインという絶体絶命の位置にいたオルフェーヴルが、いつの間にか2週目の向こう正面では脱出して、いつでも動ける位置にいた。後でパトロールビデオを見ると、2コーナーで同馬主のルーラーシップを外に張り出し、進路を確保していた。欧州でダーレーとクールモアの馬が、同じ状況になった時、果たして進路は開いただろうか? そう考えると、あの場面は、現在の寡占がスポーツに必要な最小限の攻防の余地さえ、消えつつあることを示唆している。誰が見ても、現在の日本の競馬界で、「世界」から最も近くにいるのは社台グループの馬だ。だが、彼らが世界を追求すればするほど、競技としても、パリ・ミュチュエルの器としても不可欠な「背景の異なる者の間の競争」という前提が失われる。この矛盾を解く方法はどうにも思い浮かばない。

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